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戦(いくさ)の話

戦(いくさ)の話

お万の布ざらし

勝浦市の昔ばなし

勝浦市に

♪♪ ひとつとせー
人も知ったるお万(まん)さま
生まれは上総の勝浦で
城主(じょうしゅ)正木(まさき)の息女なり

という数え唄があります。「お万(まん)さま」とは、あの徳川家康(いえやす)の側室(そくしつ)です。この「お万(まん)さま」の伝説が語り伝えられています。
今から約四〇〇年のことです。お万(まん)は天正五年(一五七七)勝浦城主(じょうしゅ)、正木(まさき)頼忠(よりただ)の娘(むすめ)として生まれました。美しい着物を身につけ、おいしい物を食べ、お殿様の娘としてなに不自由なく暮らしていました。
しかし、天正十八年。関東一円が徳川(とくがわ)家康(いえやす)によって支配されると、勝浦城は家康(いえやす)のけらい植村土佐守(うえむらとさのかみ)にせめられました。
旧暦八月十五日の夜。勝浦城がそびえる八幡(はちまん)岬(みさき)にまんまるの月がのぼりました。城の屋根にも庭の松の木にも月の光があたっています。お万(まん)は母に手をひかれ、思い出多い城をぬけだし、必死に八幡岬(はちまんみさき)の崖(がけ)っぷちまで走っていきました。月の光が海にうつり、浪のゆれとともにキラキラキラキラかがやいています。
ドドド・・・
ドドド・・・
浪が崖(がけ)にぶちあたる音が、間こえてきました。母は崖(がけ)っぶちまできますと、腹に巻いていた白布をとき、松にゆわえつけて海にたらしました。月の光がその
白布を照らし、まるで一条の滝のように見えました。この布を伝わって二人は海上に降りました。海には、小舟が一そう用意されていました。その小舟に乗
って、お万(まん)は月に照らされながら母と一緒に伊豆へ逃げのびました。
伊豆にのがれると、敵方の目をのがれて暮(く)らしました。でも、お万(まん)の利発さと美しさは、たちまち村中に知れわたりました。
今でも伊豆の「峯(みね)」という地方には

お万(まん)の髪(かみ)の毛 七尋(ななひろ) 八尋(やひろ)
三つ つなげば 江戸まで とどく
牛につけても 十駄(じつだ)にあまる

と唄われています。
徳川(とくがわ)家康(いえやす)は天下をとると、江戸へ入国しました。その途中、三島を通りかかった時でした。家康(いえやす)はお万(まん)の姿を見ると、一目で気に入ってしまいました。そこで、家康(いえやす)はお万(まん)を側室になさいました。
お万(まん)と家康(いえやす)の間に生まれた最初の子どもは長福丸(ちょうふくまる)、後の紀州頼宣(よりのぶ)です。二番目の子どもは徳千代丸(とくちよまる)、後の水戸頼房(みとよりふさ)です。頼房(よりふさ)の子どもが、テレビでご存知の水戸光圀(みとみつくに)です。それゆえ、水戸光圀(みとみつくに)はお万(まん)の孫にあたるわけです。水戸光圀(みとみつくに)が後に大活躍するのは、幼いころ、おばあさんのお万(まん)の方からの教えによるものでしょう。
浜勝浦の漁師たちは、旧暦八月十五日になりますと、月見の団子を月の光のあたる縁側(えんがわ)には出さず、こっそりと家の中に飾るといわれています。なぜなら、勝浦城が落ちた日が八月十五日だからです。
またお万(まん)さまを慕う「万(まん)信(しん)講」が今も行われています。昭和四年には、お万(まん)様の像もつくられました。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

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つか坊と姉ちゃん