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房総の偉人

房総の偉人

義民、最首杢右衛門

いすみ市の昔ばなし

いすみ市旧大原町新田(にった)、坂水寺(ばんすいじ)の境内(けいだい)にこけむした一基の供養(くよう)塔(とう)が建っています。この供養塔にはこんな話が語り伝えられています。

1
むかしむかし、今から二三〇年あまり昔の話です。この夷隅地方一帯は、日でりが続き、凶作の年がつづきました。おまけにせっかく収穫したわずかばかっの米も、年貢として取りたてられ、農民達は満足に食べることもできませんでした。おかげで、それはそれは、苦しい生活を強いられました。
悪いことは重なるもので、寛延(かんえん)三年(一七五○)この地域、押日(おしび)・嘉谷(かや)(岬町)深堀(ふかほり)(大原町)小池・浜(御宿町)の領主、阿部(あべ)出羽守(でわのかみ)は駿府(すんぷ)(静岡県)在番(ざいはん)を命じられました。在番の費用として、四百両の御用金(ごようきん)を出すように五つの村に言いわたしました。五つの村の百姓たちは、百姓組頭、最首(さいしゅ)杢右衛門(もくえもん)を中心に年貢(ねんぐ)を集めました。凶作(きようさく)の年で苦しいのにもかかわらず、農民たちは
「われらの阿部出羽守様が駿府の在番になられた」
「少しでも多く年貢を納めよう・・・」
と一生懸命働いて年貢を集めました。
しかし、百姓たちの年貢は、言いわたされた半分、二百両しか出すことができませんでした。組頭の杢右衛門は
「とても四百両は無理でございます。今年は夏の間の日でりで、不作でございまして…。私たち百姓、これが精一杯でございます。」
と申し出ました。しかし領主は
「なにを申す。でたらめを申すな。村中の田の広さならばできるはずじゃ。」
「いや、とても無理でございます」
「でたらめを申すな。できるはずじゃ・・・」
と杢右衛門の願いを聞こうともしませんでした。
五つの村の代表者はいくども集まって話し合いました。しかし、解決策を見いだすことができませんでした。凶作(きょうさく)、重税(じゅうぜい)。百姓の苦しみを誰よりも知っているのは杢右衛門です。百姓組頭として、これ以上、百姓たちに苦しい生活をしいるわけにはいきません。残された手段はただ一つだけです。考えただけで恐ろしくなります。そう、「強訴(ごうそ)」です。強訴とは江戸の阿部出羽守の屋敷に年貢の軽減を訴えることです。しかし強訴は禁止されています。このきまりを破れば打ち首です。杢右衛門の心に打ち首の光景が浮かんできました。さらに、家族の者が打ち首になる場面が浮かんできます。おののき、ふるえるのを感じる杢右衛門でした。しかし、農民達の苦しい生活、飢え死にしていく乳飲み子の姿を思うと、打ち首も恐くなくなってくるのです。
筆と墨を用意し、訴状(そじょう)を一気に書きました。
杢右衛門はふところに訴状をしのばすと、夜のうちに家をぬけだし江戸に向かいました。そうして阿部氏の江戸屋敷に訴え出ました。
結果はわかっていました。
「百姓強訴の禁令を知らぬのか、上総の百姓めが」
とただちに強訴の罪でとらえられました。

2
杢右衛門が江戸表に強訴したことを知った五つの村の者たちは動揺しました。
「強訴は打ち首。獄門(ごくもん)・・・」
「おとがめは、家族の者にもおよぶであろう」
「すぐに、逃げたほうが・・・」
と話し合われました。しかし、家族の者は
「逃げも隠れもいたしません。何なりとおとがめはお受けいたします」
と涙ひとつこぼさず言うのでした。
また一方、真福寺の住職は杢右衛門の助命嘆願書(じょめいたんがんしょ)を書いて、江戸の阿部出羽守の屋敷に願い出ました。しかし、「百姓強訴(ごうそ)の禁令」を理由に聞き届けられませんでした。寛延三年十二月二十三日、杢右衛門四十一歳のことでした。
後に、五つの村の人達は坂水寺の境内に供養塔(くようとう)を建てて弔(とむら)いました。
このような歴史があったと思うと、現在の私たちの豊かな生活が、このような事件の上にあることを強く感じます。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

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