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房総の偉人

房総の偉人

権力にまけなかった不受不施の教え

いすみ市の昔ばなし

江戸時代、キリスト教は悪い教えとされていた。そのため信者たちは十字架にかけられ、処刑された。このようにキリスト教の信者と同じように時の政治権力から悪い教えとして禁止された宗派があった。信者たちは島流し、打ち首などのごうもんをうけた。しかし、このようなきびしいとりしまりにもかかわらず、信仰を守りつづけてきた宗派が夷隅町にあった。

1
豊臣秀吉が天下をおさめていた時代である。文録四年(一五九五)九月二五日。京都東山妙法院(みょうほういん)では大仏殿が完成した。
「やっとできあがった。わしが長年のぞんできた大仏殿が・・・」
「すばらしい大仏殿でございますのう」
「わが父・母も、祖父母、遠い祖先たちも、きっとあの世でよろこんでいてくださるであろう」
大仏殿の建立は、なくなった自分の父母や祖父母・・・祖先が あの世で幸せに暮らせるようにという願いをこめて秀吉が建立した寺である。時の最高権力者、豊臣秀吉。大仏の建立にはぜいのかぎりがつくされ、日本中から最高の技術をもった大工、絵師、彫刻師たちがあつめられ建立された。できあがった寺、それは それは、豪華であった。
「大仏ができた。今度は、この大仏にたましいを入れなくては・・・」
「となりの明(みん)の国(中国)では、新しい大仏が完成すると、身分の高い僧が経をあげ、大仏にたましいを入れるという。この寺の大仏にもたましいをいれなくてはならぬ・・・」
「太閤秀吉、祖先のくようじゃ。天台宗だ日蓮(にちれん)宗・・だと、宗派にこだわらず、全国の僧をよんで経をあげさせてくれ」
「秀吉殿の祖先の供養でござる」
秀吉は全国から千人の僧をよびだし、供養する「千僧くよう」を計画し、すぐに全国の寺々に命令をだした。命令をうけた日本各地の寺々は「太閤殿下からのおまねき、ほんとうに ありがたいことよ」
「京都の大寺院で お経をあげることができるとは 名誉なことよ」
多くの寺は 最高権力者、太閤秀吉殿からのまねきを光栄なことと喜んだ。

2
ところが、この最高権力者、秀吉からのさそいに、心をいためた宗派があった。日蓮(にちれん)宗である。日蓮(にちれん)宗の寺院の中心であった岡山県妙覚寺(みょうかくじ)では、僧のあいだで、はげしい話し合いがおこなわれていた。
「名誉なことではないか。なぜことわる必要があるのじゃ」
「おぬしもごぞんじであろう。わが宗派、日蓮(にちれん)宗の信者よりくようを受け日蓮(にちれん)宗の信者のみにくようをほどす、不受不施(ふじゅふせ)の教えをわすれられたのか」
日奥(にちおう)はもうれつに反対した。
「日奥(にちおう)様、しかし・・・。今回は特別でございます」
「なに、とくべつ」
「さようでござる。このたびだけは特別でござる。太閤殿の命令でござるぞ・・・」
「仏の教えに特別も特別でないもあるのか・・・」
「でも、太閤さまの命令で・・・・」
「では、なにか。秀吉と日蓮(にちれん)上人の教えでは秀吉のほうが・・・大事でござるのか」
「・・・そうはいっておらぬ・・・」
「今回は特別だともうしておるのじゃ」
話し合いは平行線をたどり、まとまらなかった。しかし、最高権力者、太閤秀吉の命令にはさからえなかった。「今回は特別である」という理由で大仏殿の供養にでることになった。
しかし、日奥(にちおう)はたとえ一人になろうと、自分の信念を守ろうと妙覚寺(みょうかくじ)をとび出した。

3
慶長三年(一五九八)秀吉六十二歳でなくなった。秀吉のあとに天下をとったのは徳川家康であった。
「大仏くようも、全国の名僧が経をあげてくれ、ありがたいことよ。みな家康の命令にしたがうようになったな・・・」
「しかし、それが・・・。日奥(にちおう)という僧はくようにでようとしません」
「なに、わしの命令にしたがえないという僧がおるのか」
「は、はい、おそれいります」
「日奥(にちおう)ともうす僧、さっそくよびだせ」
日奥(にちおう)は大阪城の家康のもとによびだされた。
「そちが日奥(にちおう)か」
「はい」
「そちは大仏供養に出席できぬというが、なぜじゃ」
「はい。供養というものは、信ずる喜びをあらわすものです。信仰のないところに供養はありません。心から信じていないものに供養をほどこすことは信仰ではありません。」
「なに、供養できぬのか。わしの命令にしたがえぬというのか」
「信仰をまげることはできません」
「ええ、わしの命令よりも信仰がだいじというのか」
「さようで」
きっぱりと言った。
「ええ、この坊主、とらえて島流しにせい」
日奥(にちおう)はその場でとりおさえられ、僧の命ともいうべきけさ衣をはぎとられ南の島、対馬にながされた。

4
しかし、「信者でないものから、めぐみはうけない。信者でないものにめぐみをあたえない。」という日蓮(にちれん)上人の教えは、人々のあいだにひろまっていった。信仰の強さを一番よく知っているのは家康である。このままにしておいたら、人々はわしのいうことなど耳をかさなくなり、やがてさからうようになるとおそれた。
寛文六年(一六六六)、家康は日蓮(にちれん)宗の「不受不施(ふじゅふせ)派」の教えを禁止し信者は死罪、島流し、追放、入牢など、きびしくとりしまった。しかし、信仰は何よりもつよい。「不受不施(ふじゅふせ)」の教えは日本各地にひろまっていった。

5
この日蓮(にちれん)宗「不受不施(ふじゅふせ)派」の教えが夷隅地方に本格的にひろまったのは宝永二年(一七〇五)、遠成院(えんせいいん)日源(にちげん)師(し)がこの地にこられてからでる。ひそかに夷隅町行川地区を中心にひろまっていった。
日源(にちげん)の死後あとをついだのは清順院日近(せいじゅんいんにっきん)であった。日近の説教は情熱的で人々の心に感動をあたえ、たくさんの信者をあつめた。そのため、いままで信仰していた宗派や寺をやめる人たちがでてくるほどであった。
「日近上人の教えこそ、正しい教えだ」
「本当の信者なら、まちがった教えをすてるのが正しいのでは」
「でも御禁制の教え。みつかれば打ち首、島流し・・・どんなおとがめがあるかもしれぬ・・・」
「しかし、よ。信じていないものを信者らしくふるまうほうが罪ぶかいのではないだろうか」
民衆は悩んだ。しかし「信仰はなにものよりも強し」。勇気ある信者十五人が今までの寺をやめた。
御禁制の宗派を信仰する、当然のようにおとがめが出た。信者たちは腰になわをかけられ、馬にのせられて江戸におくられた。それでも信者たちは、おこったり悲しんだりする者は なかった。むしろ 自分の信仰をつらぬいた満足感にみちあふれたおだやかな顔であった。
江戸に送られる朝、人々は道ばたにならび、馬にのせられて行く十五人に手をあわせ見送った。この事件を「行川(なめがわ)法難」という。

6
行川(なめがわ)法難のあと、「不受不施(ふじゅふせ)派」をおもてだって信仰するものはなくなっていった。世間の目にふれないようにひそかに信仰がつづけられた。
「不受不施(ふじゅふせ)の教えは備前国(びぜんのくに)(岡山県)がさかんだという」
「みんなで 教えを学びにゆこうではないか」
「でも、みつかれば・・・」
「みつかれば、うち首」
「ごく門、島流し・・・」
「・・・・・」
「巡礼。・・・。そうすれば、あやしまれないだろう。もし、みつかっても 西国の巡礼で諸国の寺めぐりであると理由もある」
「そうだ、それだ。その方法がある」
「信仰をまもるためにも、行こう」
「行こう、行こう・・・」
天明三年(一七八三)信者たちは「不受不施(ふじゅふせ)派」のさかんである備前国(びぜんのくに)にむかった。備前国に入った一行は「不受不施(ふじゅふせ)派」の寺、十二ヵ所をおまいりし、それぞれの寺のご本尊をいただいてきた。そうして、ひそかに信仰をつづけていった。この時いただいてきたご本尊は今もなお正立寺の麻生家、鈴木家、行川(なめがわ)の関家に大切に保存されているという。

7
明治二年のことである。布教の罪で島流しにあっていた日蓮(にちれん)宗不受不施(ふじゅふせ)派の大上人であった日妙上人の罪がゆるされた。日本中の寺が注目した。あの大上人をどこの寺がお迎えになるだろうか。だれもが大きな寺であろうと思っていた。しかし、意外にも引き取り人は房総の小さな正立寺(しょうりゅうじ)村、麻生亨(あそうとうる)が身元ひきうけ人となって迎えることになった。
日妙(にちみょう)上人とともに日徳(にちとく)上人、守平などの僧がむかえられた。そうして一ヵ月後、日本仏教会の大聖人といわれていた日正(にっしょう)聖人がむかえられた。この時の歓迎は盛大であった。民衆が道の両わきにならんで歓迎し、その長さは五キロメートルにもなったという。
日正(にっしょう)聖人は麻生家の敷地に妙昌庵(みょうしょうあん)を建て布教につとめた。
「みなさん、おあつまりいただきありがとうございます。
・・・・日蓮(にちれん)上人は 法華経(ほけきょう)を信じるものは他の教えを信ずるものより供養を受けてはならないし、他の教えに供養をほどこしてもなりませんとおっしゃています。これが日蓮(にちれん)上人の本当のおしえでございます。ところがこの日蓮(にちれん)上人の教えが権力者や時の政治によってゆがめられて信仰されています。信仰は自分の心にすなおでなくてはありません。自分で正しいと信じたことはたとえどのような障害にあっても・・・・」
民衆はうなずきながら聞きいり、話のおわるころには感動のあまり泣きだすものもあった。
日正(にっしょう)聖人の説教に心をうたれ、話を聞きにくる人々はふえていった。しかし、「禁制の教え」いつ役人が寺にふみこんでくるかもしれない。そこで、かくれ部屋がつくられ 説教はおこなわれた。
このかくれ部屋はつい最近まで残っていたという。板かべはかくし戸になっていて、そこから二階のかくれ部屋につうじていたという。その他、仏だんは二重になっていて、不受不施(ふじゅふせ)の教えはかくし仏だんにおかれていた。また重要な教典はみつからないように 屋根の骨組みとなっている竹づつに入れてかくされていたという。

8
明治二年(一八六九)十一月、ある夜のことであった。日正(にっしょう)聖人は 不思議な夢をみられた。夢は、冬だというのに松の木が新芽をだすというものであった。この夢のようすを不思議におもわれ次のような歌によまれた。
一年にふたたびのびる姫小松(ひめこまつ)
万代(よろず)栄ふしすしなるらん
「若松」の文字を分解すると 「若」は三十と口となり、「松」は十八と公となる。これをあわせると四十八となる。夢のおつげにちがいない。
「わしが四十八歳になったならば 不受不施(ふじゅふせ)の教えは、罪をうけることもなく世間がみとめてくれるであろう」
と予言された。この夢から七年後、明治九年。予言どおり日正(にっしょう)聖人四十八歳の時に不受不施(ふじゅふせ)の教えは日の目をみるようになった。
このような歴史があったことは現在あまり知られていない。ただ、麻生家の庭に、かって妙晶庵(みょうしょうあん)という寺があったことを伝える石碑(ひ)が建っているだけである。

おしまい
(齊藤 弥四郎 編纂)

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