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戦(いくさ)の話

戦(いくさ)の話

弓取り橋

いすみ市の昔ばなし

岬町中根に「弓取(ゆみと)り橋」と呼ばれている橋がある。この橋の名は「源頼朝(みなもとのよりとも)伝説」に由来する。
平安時代末期のころだ。そのころの日本は、平清盛(たいらのきよもり)を中心とする平家の一族が政治を行っていた。
「平家であらざれば人でなし」
と、政治の重要な役職は平清盛(たいらのきよもり)兄弟、子ども、親戚がしめ、自由勝手にふるまい、贅の限りをつくしていた。この平家の横暴な態度をこころよく思わない一族がいた。源頼朝(みなもとのよりとも)を総大将とする源氏の一族だ。
一一八〇年(治承(じしょう)四年)八月、平家を倒すために源頼朝(みなもとのよりとも)は伊豆で兵を挙げた。しかし、伊豆の「石橋山(いしばしやま)の戦」で大敗し、真鶴岬(まなづるみさき)から千葉県に逃れてきた。なぜ千葉県に逃げて来たかというと、その頃千葉県には上総介広常(かずさのすけひろつね)という大きな勢力を持つ武将が住んでいた。どこに住んでいたかというと、おどろくことなかれ、大原町布施(ふせ)に城をかまえていた。その上総介広常(かずさのすけひろつね)に、源頼朝(みなもとのよりとも)はたよって来たのだ。しかし、広常はすぐには援軍を送らなかった。

上総介広常(かずさのすけひろつね)から援軍の返事をもらえなかった源頼朝(みなもとのよりとも)は、下総の千葉常胤をたよって千葉市に向かった。
ちょうど、中根(なかね)の近くに来たときだ。川は昨夜の雨で橋げたすれすれまで増水(ぞうすい)していた。
「注意して渡れ。すべるぞ」
頼朝が家来達にむかって叫んだ。
「殿、私が先に渡ります」
和田義盛(わだよしもり)が頼朝の先に立ち馬を進めた。義盛(よしもり)は川の流れを見ながら、慎重に馬を歩ませた。橋の中程で馬が歩むのをやめて立ち止まった。
「ほい、ほい」
義盛(よしもり)は手綱(たづな)を引いて先に進むようにうながした。馬は恐る恐る渡って、向こう岸についた。
「ゆっくり、ゆっくり渡って来られよ。流れは速い。心して渡られよ」
「・・・これしきの流れ、」
つづいて北条義時が馬を進めた。さすが源氏の重臣(じゅうしん)、あざやかな手綱(たづな)さばきだ。馬は軽やかに歩んで行った。もうすこしで渡り終えるというときだ。
「あっ」
と、いう声がしたかとおもうと馬の背に結んでおいた弓が川に落ちた。流れは急だ。弓はあっというまに川下に流された。
その時だ。頼朝は流れる弓を追いかけた。やがて弓に追いつくと馬をおどらせて、激流に飛び込んだ。
「えい、や」
自分の弓で、流れる弓をひっかけてひろいあげた。
見つめていた家来達が
「わあー、やったー」
「さすが、源氏の頭領、頼朝殿だ」
と、大きな歓声があがった。頼朝はひろいあげると
「今のわれわれは、弓一本もおしい。大事にされよ」
と、北条義時に手渡された。
その後、上総介広常(かずさのすけひろつね)や千葉に城をかまえて千葉常胤(ちばつねたね)など房総武士団の応援により、平家方を次々に滅ぼし、やがて鎌倉に幕府を開いた。
「弓取(ゆみと)り橋」の名前の由来は、このようにあの鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が激しく流れるこの川から弓をひろったのでこう呼ばれるようになったと。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

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