• 楽しい話
  • あたたかい話
  • 悲しい話
  • 怠け者の話
  • 欲ばり者の話
  • 呆れた話
  • 怖い話
  • キツネやムジナの話
  • お化けの話
  • 神様・仏様の話
  • 不思議な話
  • 災いの話
  • 地名の話
  • 戦(いくさ)の話
  • 房総の偉人
  • 房総の史実

あたたかい話

あたたかい話

親孝行な麻生利器

大多喜町の昔ばなし


大多喜町新丁(しんまち)に、「妙福寺(みょうふくじ)」というお寺があります。
この寺の境内(けいだい)に、墓石一面に、びっしり漢字の書かれたお墓があります。
お墓には、こんな心あたたまる話が伝えられています。

1
江戸時代のことです。大多喜は、房総一の城下町として栄えていました。城下は、刀や鉄砲をつくる鍛冶町(かじまち)、布を染める紺屋町(こうやまち)、商人が集まった久保町(くぼまち)など、職種ごとに別れて住んでいました。さらに、城下のまわりには田や畑が広がり、お百姓さんが住んでいました。このお百姓さんの一人に荘吉(そうきち)という若者がいました。荘吉は小さい時に父を亡くし、母と二人で貧しいながらも幸せに暮らしていました。
ある秋のことでした。たん精こめて作った稲が収穫の時期をむかえました。稲は黄金色に実をつけていました。
「今年は豊作だ」
「年貢(ねんぐ)をおさめることができる」
「庄屋さんから借りていたお金も、返すことができそうだ」
「刈(か)り入(い)れは、いつにしようかね」
「台風がくる前に刈り取ったほうがいい。明日にも刈り取ろう」
「いやいや、このところ晴天つづき。もう少し陽に当てたほうが、穂の落ちもいいだろう・・・」
「・・・・・」
荘吉と母は、収穫の季節を待ちわびていました。
ところが、このよろこびもつかの間。いちばんおそれていたことがおきたのです。昼すぎに降ってきた雨が、夕暮れ時には本格的な雨に変わりました。そして夜になると、一段と激しくなりました。野や山に降った雨は夷隅川(いすみがわ)に流れ、やがて大水となり、あふれて田や畑は水びたしとなりました。荘吉と母は、ただぼう然と立ちつくしていました。
「ああ、どうしよう」
「これでは、年貢(ねんぐ)も、借金(しゃっきん)も返せない・・・」
なげき悲しむ母と子でした。

2
途方にくれる荘吉でしたが、なげいても、ぐちをいったところでどうすることもできません。借金するしかありません。すでに借金をしています。さらに借金を重ねるのです。なかなか、お金を貸してくれる人はいません。しかし、「荘吉が江戸に出て働く」ということで、久保の商人からお金を借りることができました。
年老いた母を一人残して江戸に行くのは心配です。そこで、かねてから思い
をよせていた隣の正立寺村(しょうりゅうじむら)の百姓の娘、利器(りき)を嫁にもらい、母のめんどうをみてもらうことにしました。そして江戸に働きに行く決心を母に話しました。
「このままでは暮らしてはいけない。江戸に出て働く」
「江戸へ・・・」
「江戸へ行って働けば、大金が稼げる」
「荘吉、貧しくてもいい。苦労してもいい。おまえと一緒にいるほうがどんなにしあわせなことか・・・」
「わしは、年をとってしまったし、働くこともままならない」
涙ながらに話す母でした。そんな母を
「心配しなくていい。おっかさんのめんどうは、嫁の利器が・・・」
「江戸で働き、金を送る」
と、説得しました。母も荘吉の決心の前にはどうすることもできず、江戸行きを承諾しました。

3
明日、江戸へ出発するという夜でした。利器はそまつながらも、心のこもった食事を用意して、親せきたちと別れの宴をひらきました。つらい気持ちをおさえて、宴の席にならびました。
やがて、親せきが帰り、母も床につきました。いろりの火も消えかけようとしていました。荘吉は残り火に照らされている利器の顔をみつめ、いいました。
「利器、おっかあをたのむ。おっかあは、この荘吉を生んだ、この世でただひとりのおっかあだ。ずっと、貧しい生活にたえてきた。どうか、おっかあのめんどうをたのむ」
「・・・・」
「年老いた親がふびんでならない。しかし、利器が一生懸命、親孝行してくれると思うと、おれも働きがいがあるというもんだ・・・。くれぐれもたのむ・
・・」
荘吉のことばに、利器はただうなずくばかりでした。

4
荘吉が江戸に旅出った後、利器は一生懸命、姑(しゅうとめ)につかえました。朝は早く起きて朝食の世話をし、洗濯してから野良仕事にでかけました。仕事が終わって帰ってくると、夕飯のしたくをし、風呂をわかし、母を入浴させました。姑は酒とそばをたいそう好みました。貧しい家計の中から、母の大好きな酒とそばを買ってきては、食卓にならべました。姑は献身的な利器にたいへんよろこびました。近所の人たちも
「利器は女の鏡だ」
「あんな働き者で親孝行な嫁はめずらしい」
と、感心しました。そのたびに利器はいいました。
「いたらない嫁で・・・」
「わたしは荘吉の嫁です。荘吉を生んだおっかさんにつくすことはあたりまえです・・・」
また、江戸の荘吉から金が送られてくると
「荘吉さんからお金が届いたけれど、どのように使ったらいいでしょうか」
と、姑に相談する利器でした。すると
「家の物はそろえなくていい。それより親せきの者や荘吉がお金をかりた人たちに礼をしてくだされ。なお余裕があったら、万が一に備えて貯えをしてくだされ」
というのでした。利器は、母のいう通りに親戚(しんせき)やお世話になった人たちに金を返し、残りを貯えました。
念仏講があれば、足腰が弱り、歩くことが不自由になった姑に代わって出かけ、一生懸命近所づきあいにはげむ利器でした。

5
やがて、年老いた姑は床にふすようになりました。利器はそんな姑のめんどうをよくみました。夜中に姑がせきをすると背中をさすり、熱をだすと冷やしてやりました。近所の人たちは
「利器はほんとにえらい。おっかさん思いの、いい嫁さんだ」
と、これまで以上にほめました。
利器の看病のかいあって、姑は七十八歳という天寿をまっとうすることができました。亡くなった後も利器は朝夕、仏前に花とお供え物をあげ、手をあわせめいふくを祈りました。

6
やがて、江戸から荘吉が帰って来るという便りが届きました。
「荘吉が帰って来る。これからは一緒に暮らせる」と思いました。しかし、荘吉は寝る間も惜しんで働いたので病をわずらっていたのです。そのため、ふるさと大多喜に帰って来たのでした。病(やまい)をわずらった荘吉が帰ってくると、利器は姑を看病したようにまた荘吉を看病しました。

「すまないねえ、利器。おっかあが世話になり、今度はわしが。苦労のかけっぱなしで・・・」
こういう荘吉に利器は
「いえ、いえ。わたしは、こうしてあなたといっしょに暮らせることが幸せです。早くよくなってください・・・」
といって、前よりも、いっそう働きました。
荘吉の病は一時、良くなりましたが、悪化し、とうとう四十三歳の春に亡くなってしまいました。
また、利器も看病疲れと、愛する夫、荘吉を失った悲しみから三ケ月後に亡くなってしまいました。三十九歳でした。大多喜はもちろん、となり村まで利器の孝行は知れわたりました。
やがて、この利器の孝行ぶりは大多喜藩(おおたきはん)の役人そして藩主(はんしゅ)の耳にも入りました。藩主は利器に感心し
「利器の孝行ぶりは世の見本である。利器の行いをいつまでも語り伝えるために利器の墓石にその業績を記せよ」
と、家来に命じました。
それで、妙福寺にこの「孝婦麻生利器(こうふあそうりき)」の墓碑が建っているのです。建てられたのは利器が亡くなった二年後、寛政十二年(西暦1800年)のことです。
妙福寺の境内にある利器のお墓には、今もなお花や線香がたえません。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

タグ : 

つか坊と姉ちゃん