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戦(いくさ)の話

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尾骨(おほね)神社

いすみ市の昔ばなし

1
大原町山田に『尾骨神社』という社があります。小さな美しい社です。昭和六十年に建てかえられ、白い木柱に『尾骨神社』と書かれた案内も建てられています。長いこと尾骨を「びこつ」と読んでいました。ところが読み方がちがいました。「びこつ」ではなく「おほね」と読むということを知ったのはずっと後のことです。拙著「夷隅の民話さんぽ」で「びこつ」とふりがなをつけたところ、たくさんの方から
「ビコツと読むのではなく、オホネとよむのだ」と教えていただきました。 『尾骨(おほね)』とは、ご存じのように動物のお尻にある尾骨のことです。お社の前を通るたびに、「なにもお尻の骨の名を神社に命名しなくてもいいのになあ、もっとほかの名前をつければ・・・」と思っていました。でも、この神社が『尾骨神社』でなければならない理由がわかりました。『尾骨神社』命名の理由には、このような話があります。

2
むかしむかし。治承四年(一一八十年)八月、伊豆『石橋山の戦』に敗れた源頼朝は真鶴岬から安房の国に逃れてきました。そうして房総の武士、上総介広常、千葉常胤を味方にして、京に攻め入ろうと考えていました。安房の国から上総国に入られた頼朝は、広常の館(現御宿町布施)に救援を願う使者を送りました。使者は家臣の和田義盛でした。
「広常殿、源氏に力をおかしくだされ。京の都で遊戯にふけり、まつりごとを忘れている平氏を討つ時がきたのです。どうかお力を・・・」
深く頭を垂れて、救援をお願いされました。広常は目を閉じて、じっと聴き入っていました。
「義盛殿、源氏の申し出、よくわかり申した。しかし、もう少し時をくだされ。隣国、下総国の千葉常胤殿の意向もお聞きしたい・・・」
と、いって使者の和田義盛をかえしてしまいました。
やがて下総国、千葉常胤の元には、藤九郎盛長が、救援の願いに行きました。常胤は、心よく救援を受け入れ、頼朝一行と京に向ったという知らせが入りました。常胤が救援したことを知ると、広常は「この戦、勝算あり」とみて、頼朝軍に加勢することにしました。

3
九月、夏の終わりを告げる陽が照っていました。道の両脇の稲の穂にも、道行く兵にも照りつけていました。刈り入れ時期に入った田んぼでは、
「また戦が始まるんだって・・・」
「京の都に、頼朝殿がいよいよ攻め入るらしい・・・」
と、手を休めて兵の列を見送っていました。広常は馬にまたがり、列の真ん中あたりを進んでいきました。
現在の大原町長志を通り過ぎ、山田地区に入った時でした。
ヒヒヒイヒーン
馬がいなないたかと思うと、総大将広常殿が馬から転げ落ちてしまわれたのです。
「との、殿、・・・・・いかがなされました。」
「う、う・・・馬が急に・・・・  」
馬は前脚をそろえ、後ろ脚を突っ張って立とうとします。しかし、どうしても立てません。馬はいななきながらいくども立とうとしましたが、起き上がれません。従者の兵たちも手綱を引っ張る者、馬の大きな尻を押す者、懸命に起こそうしましたが、やはり、だめでした。馬の大きな目には涙がたまり、次第に元気がなくなっていきました。やがて、ドットその場に横だおしになったかと思うと、息をひきとってしまいました。馬の死因は、脚を骨折して倒れた時に尾てい骨をしたたか打ってしまったのです。広常のかわいがってきた馬です。家来に命じてその所に手厚く葬りました。その場所が現在『尾骨神社』の立っている所です。また、近くの橋も『尾骨橋』と呼ばれています。

4
この後、広常軍は 隅田川のほとりに陣をとっていた頼朝軍に加わりました。二万の兵を引き連れて参上したので、「さぞや、頼朝殿に喜んでもらえるだろう」と、思っていたのですが、少しも喜んでもらえませんでした。なぜなら、救援を願い出たときに「すぐに援軍を出す」という返事をもらえなかったことに、頼朝は腹をたてていたのです。このことが後々まで心に頼朝は「広常は二心をもっている。いつ反逆されるかわからない」と、家臣の梶原景時に広常を暗殺させています。
日ごろ何気なく目にしている社にも、このように日本の歴史にまつわる伝説が残っていることは、実に痛快です。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

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